2000年2月 No.9
芦田 正明(低温基礎科学部門)
研究のおもしろさは時として考えもおよばなかった方向に発展する場合がある ことである。昆虫血液が試験管の中に取り出されるとなぜ黒色色素(メラニン) を合成し始めるのかについての研究もその一例である。メラニン合成の背後に隠 された仕組みは昆虫のカビやバクテリアに対する主要な生体防御機構の一つであ ることが1990年代に入りはっきりしてきた。此の機構で使われている分子と 相同な分子が我々人間を含めたほ乳類の自然免疫に関わっているらしいことも最 近明らかになった。さらに、我々の研究が基となって家蚕(カイコ)の血液がグ ラム陽性菌とカビの検出試薬として市場に登場し、大海原におけるバクテリアの 存在量を測る手だてとして利用される例などが知られるようになった。研究の背 景と最近の話題を紹介する。
メラニンはチロシンやドーパなどのフェノール性物質が空気中の酸素の存在下
で酸化され、生じたキノン類が重合した複雑な化合物ある。フェノール性物質の
酸化反応を触媒するのがフェノール酸化酵素である。昆虫血液にはチロシンやドー
パが高濃度で存在している。フェノール酸化酵素も血液中に存在している。血液
には空気中の酸素が充分溶け込んでいるにもかかわらず、なぜin vivo
(体内)でメラニンは合成されないのだろか。半世紀近く以前に私の恩師である
大西英爾博士(現名古屋大学名誉教授)がフェノール酸化酵素は不活性な前駆体
(フェノール酸化酵素前駆体)として昆虫血液に存在していることを発見された。
1951年のことである。この発見は、血液が体外に取り出されるとフェノール
酸化酵素前駆体の活性化反応が始まることを明らかにした。このときから、次の
2つの疑問 ”活性化の際、前駆体分子にどの様な変化が起こるか”と”活性化
反応の開始はどの様に制御されているか”に答えるための長い研究の歴史がはじ
まった。まず、フェノール酸化酵素前駆体とそれを活性化する因子(フェノール
酸化酵素前駆体活性化酵素、PPAEと以下略称)がカイコ幼虫から精製され、
試験管の中で活性化反応が解析された。フェノール酸化酵素前駆体はPPAEの
作用で分子中のたった一つのペプチド結合が加水分解されることによって活性型
に変換されることが明らかになった。加水分解されるのはフェノール酸化酵素前
駆体分子のアミノ末端から数えて50番目のアミノ酸(アルギニン)のカルボキ
シル基がわのペプチド結合で、−アスパラギン−アルギニン−フェニルアラニン
−グリシン−というアミノ酸配列の中にある。このアミノ酸配列はショウジョウ
バエやタバコスズメ蛾のフェノール酸化酵素前駆体にも存在している。ちょっと
余談になるが、ここでフェノール酸化酵素の一次構造(アミノ酸の配列順序)に
ついての我々の研究から明らかになった興味ある事実にふれておきたい。昆虫の
フェノール酸化酵素は節足動物のヘモシアニン(ほ乳動物の血液中に存在するヘ
モグロビンのように酸素を運搬する機能を持つ銅タンパク)と相同なタンパクで
脊椎動物、植物、細菌のフェノール酸化酵素とは進化の上で起源の異なる分子で
あることが判明したことである。下等節足動物はほとんど皆ヘモシアニンを持っ
ているにもかかわらず、昆虫はこれを持っていない。昆虫は空気中の酸素を直接
組織に運ぶ気管系を発達させたので、ヘモシアニンを必要としなくなりこの分子
を失ってしまったのだと考えられてきた。昆虫は必要でなくなったヘモシアニン
をフェノール酸化酵素前駆体として廃品利用されたのかも知れない。
フェノール酸化酵素前駆体がPPAEによる限定加水分解で活性化されること
ははっきりした。それではPPAE活性はどの様に制御されているのだろうか。
昆虫の特殊な生体防御機構の研究からこの問いにたいする答えが得られることに
なった。
昆虫の生体防御機構として、血球細胞による細菌の貪食や大型異物を取り囲む
被嚢形成、血液凝固、抗菌ペプチドの合成などが知られている。これらの機構は
昆虫のみならず脊髄動物や他の無脊椎動物にも広く分布していることが知られて
いる。生まれつき備わっている機構なので自然免疫とよばれている。高等脊椎動
物にはこれ以外に免疫グロブリンなどが関与する獲得免疫の機構があるが、自然
免疫の仕組みは生物進化の課程で獲得免疫よりずっと前に出現したと考えられて
いる。植物のカビやバクテリアにたいする生体防御機構に動物の自然免疫に使わ
れている分子と相同な分子が組み込まれていることもごく最近発見されているい
る。
昆虫や一部の下等節足動物では体内に侵入したカビの菌糸やバクテリアの周囲、
傷害部位、宿主選択を誤って生みつけられた寄生蜂の卵の周囲にメラニンが沈着
することが昔からしばしば観察されてきた。この異物周囲でのメラニン合成は昆
虫病理の研究者の間で昆虫の生体防御反応のおおきな特徴として注目を集めてき
た。フェノール性物質からメラニンが合成される過程で生じるキノン類は反応性
が高く、異物周囲で生じる不溶性高分子物質をキノンなめしにより物理的に強固
にして異物を封じ込めてしまうからである。また、キノンには細胞毒性があり細
菌類を殺すのにも役だっている可能性が指摘されている。
カビやバクテリアの周囲でメラニンが合成されるということは、そこでフェノー
ル酸化酵素が働いていることを意味している。フェノール酸化酵素はフェノール
酸化酵素前駆体がPPAEにより活性化されて生じる。このことから考えるとP
PAEの活性制御にこれら微生物が関係していそうである。どの様に関係してい
るかを調べるには昆虫血液をin vivoの状態を保ったまま試験管の中に移
しとることが是非必要である。なぜならば、前にも述べたように血液を体表に傷
をつけて採取したのでは、得られた血液の中でPPAEは働きだしてしまうから
である。”in vivoの状態を保ったまま”ということが難しく1980年
代はじめまで世界中の誰もカビやバクテリアとフェノール酸化酵素前駆体の活性
制御を結びつけることはできなかった。1980年に筆者はカイコの血液(普通
は黄色をしている)を様々な(他の研究者がちょっとやらないような)方法で採
取することを試みていた。もちろん”in vivoの状態を保ったまま”の血
液を得るためである。紙面の都合で詳細を記すことができないが、とにかく試験
管のなかでいつまでも黄色で、カビの細胞壁の成分であるザイモサン(βー1、
3ーグルカンとマンナンの混合物)を加えると黒化する血液を得ることに成功し
た。この血液の血漿成分のおかげでカイコ血液におけるメラニン生成機構(フェ
ノール酸化酵素前駆体活性化機構)の研究が初めて可能になった。
”in vivoの状態を保ったまま”得られた血液を用いて明らかになった
フェノール酸化酵素前駆体活性化機構を図1に示す。予想されたようにフェノー
ル酸化酵素前駆体はカビやバクテリアの細胞壁成分により活性化されることが証
明された。しかも、フェノール酸化酵素前駆体はバクテリアとカビの細胞壁成分
により直接活性化されるのではなく、バクテリアとカビの細胞壁成分であるペプ
チドグリカンやβー1、3ーグルカンと特異的に結合する認識タンパク(ペプチ
ドグリカン認識タンパクとβー1、3ーグルカン認識タンパク)、いくつかのセ
リン型プロテアーゼ(活性中心にアミノ酸のセリンを持つタンパク分解酵素)前
駆体などから構成されるカスケードの作用で活性化されることが明らかになった。
ペプチドグリカン認識タンパクとβー1、3ーグルカン認識タンパクがそれぞれ
のリガンド(ペプチドグリカンとβー1、3ーグルカン)に結合することによっ
てカスケードの引き金が引かれる。 このカスケードは世界中の研究者によりプ
ロフェノールオキシダーゼカスケード(略称ではproPOカスケード)とよば
れるようになった。このカスケードは昆虫の異物認識機構の一部を構成し、昆虫
の主要な生体防御機構の一つとして認められている。ProPOカスケードの構
成要素はまだ図1に示したものしか単離されていない。どのくらい多くの構成要
素が存在するのか、私たちの研究でおおよその見当はついているが、それらをす
べて精製するにはまだまだ時間がかかりそうである。精製されたすべての構成要
素を用いてin vitroでカスケードの活性化反応が解析できるようになれ
ばカスケードの生理的役割に関する我々の知識はおおいにいに広がるだろう。我々
は主要な努力をこの方向に向けて研究を進めている。
ペプチドグリカン認識タンパク(peptidoglycan recogn
ition protein,PGRP)は吉田英哉博士(現、岡山大学・資源
生物研究所)が私の研究室にいる時に精製し、ごく最近、落合正則博士がその一
次構造を明らかにした。驚いたことに、PGRPと相同なタンパクが人間やマウ
スにも存在し、機能が判らないタンパクとして放置されていたことである。バク
テリアの細胞壁成分であるペプチドグリカン(PG)はほ乳動物でも非自己とし
て認識され発熱など様々な生理作用を示すことが知られているが、PGに特異的
に結合する分子はほ乳動物では知られていなかった。我々のPGRPについての
研究が発端となってほ乳動物でPGが非自己として認識される仕組みや、生理活
性を示す仕組みについての研究が急速に進展することが期待されている。さらに、
proPOカスケードがカビの細胞壁成分の * ー1、3ーグルカンにより活性
化されて生じるプロテアーゼ(図1でBAEEaseとして記されている酵素)
は脂肪体(昆虫でほ乳類の肝臓のような働きをしている組織)の細胞にカビを殺
す作用のある小さなタンパクを合成するように指令するのに働いているらしいこ
とも判ってきた。proPOカスケードはメラニンを合成するためのみに働くの
ではなく、カビやバクテリアを非自己として認識し、その認識シグナルを増幅し
て、昆虫の他の生体防御機構が働き始めるためのシグナルを提供する仕組みだっ
たのである。
カブトガニの血液凝固系はセリン型プロテアーゼ前駆体などから構成されるカ
スケードで、グラム陰性菌の細胞壁成分であるのリポポリサッカライド(lip
opolysaccharide,LPS)やカビの細胞壁成分であるβー1、
3ーグルカンにより引き金が引かれるカスケードである。このカスケードは医療
機器や医薬のグラム陰性菌あるいはカビによる汚染を検査するテスト、”リムル
ステスト”(リムルスはカブトガニの属名)として広く使用されている。リムル
ステストでは1ml中に数ピコグラムのLPSやβー1、3ーグルカンあればそ
れらを検出できる。リムルステストはこのように感度の高い優れた汚染検査試薬
であり、現代の医療、医学・生物学研究には欠くことのできない試薬となってい
る。多くの先進国では医療機器や医薬のリムルステストによる汚染検査が義務ず
けられている。しかし、このリムルステストに泣き所がある。1つは、グラム陽
性菌を検出できないことである。グラム陽性菌は多くの感染症のを引き起こすこ
とが知られている。現在問題になっている院内感染病原菌、メリチシン耐性菌も
グラム陽性菌である。さらに、カブトガニは世界的に資源が減少している。日本
では天然記念物に指定されているほどである。リムルステストにたいする需要は
益々増加することが予想されているので、将来需要をまかなうに充分なカブトガ
ニ血液の供給が困難になるかもしれない。これらの事情がリムルステストに代わ
る感度の良い細菌汚染検査試薬、あるいはリムルステストの弱点を補完する試薬
の登場が期待されている理由である。今から10年近くまえ、リムルステスト試
薬を発売している薬品会社の1つである和光純薬工業の大阪研究所に勤務する土
谷氏から電話を頂いた。カイコのproPOカスケードを汚染検査薬として利用
する可能性を研究したいと言うお話だった。私たちの研究を基に、土谷氏らはカ
イコ血液のproPOカスケードを汚染検査薬として育て上げるために様々な工
夫をされ、ペプチドグリカンとβー1、3ーグルカンを検出する試薬としてカイ
コ血液からSLP試薬を製品化することに成功された。4年前のことである。S
LP試薬による汚染検査にはプレートリーダーのような比較的高価な機器を使用
する方法と機器を使わず目視によるエンドポイント判定法がある。図2に目視に
よるエンドポイント判定法でペプチドグリカンとβー1、3ーグルカンを検出し
た例を示した。SLP試薬について今後解決しなければならない問題点は色々考
えられるが、さしあたって次の2点が重要である。第一は、ペプチドグリカンあ
るいはβー1、3ーグルカンだけを検出するSLP試薬を開発すること(実験室
段階ではそれぞれに特異的な試薬の調製が可能である)、第二はペプチドグリカ
ンに対する試薬の感度をたかめることである。現在のSLP試薬のペプチドグリ
カンにたいする感度が低い原因の一端はペプチドグリカンの物理的性状にあると
考えられている。ペプチドグリカンは可溶性の物質ではない。したがってSLP
試薬に加えられたペプチドグリカンのすべてがproPOカスケードの引き金を
引くのに有効に働いていないのかもしれない。
ペプチドグリカンは様々な生理活性を持つことが知られているが、ほ乳動物の
体内での動態についての研究は良い検出法がなかったために不明な点が多かった。
SLP試薬はグラム陽性菌による汚染を検出するたに初めて実用化された手段で
あるだけでなく、ペプチドグリカンの薬理作用研究の新しい展開を促す触媒とし
て機能するかもしれないと期待されている。また、上に述べた問題点を克服する
ことによってさらに使いやすい試薬として用途が広がり多くの人に使用されるよ
うになるだろうと思われる。東京大学・海洋研究所の小暮研究室の柴田晃博士は
SLP試薬を大海原のバクテリアのバイオマスを定量するのに応用しているとお
聞きしている。これなどは予想だにしなかった分野でのproPOカスケードの
利用例である。
昆虫血液が体の外に取り出されるとその色が黒くなる。その理由を調べてみる と、メラニン合成はカビやバクテリアにたいする昆虫の生体防御機構が働いた結 果だということが明らかになった。さらに、予想もしなかった方向に研究は展開 し、グラム陽性菌を検出する試薬の開発に貢献することができた。ProPOカ スケードはほ乳動物血液の補体系や血液凝固系に匹敵すると看なされ、現在では 昆虫の生存にとって欠くべからざる重要な生体防御系だと考えられるようになっ た。昆虫のproPOカスケードに関して現在われわれが知っている重要なこと がらのほとんどすべては我が研究室で明らかにされたと断言しても過言でない。 これらの成果を得ることができた最大の原因は、昆虫の血液が黒くなる仕組みに 興味を持ちそれをを持続して研究したことだと思っている。フェノール酸化酵素 が前駆体として存在することが報告されてから半世紀が経過した。この先の研究 で今まで以上に興味ある現象に遭遇できるのではないかと秘かに期待している。
図1 カイコ血漿中のプロフェノールオキシダーゼカスケード。X,βー1、3ー グルカン認識タンパク;Y,ペプチドグリカン認識タンパク;BAEEase, ベンゾイルアルギニンエチルエステルを加水分解する酵素として発見されたセリ ン型プロテアーゼ。現在、生体内での機能に注目が集まっている;pro−BA EEase、BAEEaseの前駆体;PO,フェノール酸化酵素;pro−P O、フェノール酸化酵素前駆体;activating enzyme,pro −PO活性化酵素(セリン型プロテアーゼの1種。本文ではPPAEと略称され ている);pro−activating enzyme,activatin g enzymeの前駆体。マル印はカルシウムイオンを必要とする反応を示す。 ProーBAEEase とpro-acti- vating enzymeは限 定加水分解により活性化されることが証明されている。図で点線はまだ解明され ていない部分を示している。
図2 SLP試薬による目視テスト。SLP試薬と同容量の試料を混合し30度 1時間放置後、結果を判定した。βー1、3ーグルカンとペプチドグリカンのエ ンドポイント(EP)はそれぞれ15.6pg/mlと1.25ng/mlであ ることが示されている。